本田美奈子.(ほんだ みなこ)
プロフィール
2005年11月6日午前4時38分、白血病によって逝去されました。(満38歳)
アイドル歌手で、1990年代以降は主にミュージカルで活動した。2000年代に入ってからはクラシックとのクロスオーバーに挑戦する。
・アイドル歌手としてデビュー
1967年(昭和42年)7月31日午前11時17分、東京都板橋区上赤塚町(現成増)の成増産院にて、体重2860gで生まれ、ラジオの全国放送のその日生まれた新生児を紹介するコーナーで取り上げられる。家族は東京都葛飾区柴又に在住していたが、幼いうちに埼玉県朝霞市に移住し、朝霞白百合幼稚園に入園した。以来、生涯の大半を朝霞市で過ごした。
歌手になる事を夢見ていた母親の影響で、美奈子も幼い頃からいつも歌を歌っていた。朝霞市立朝霞第六小学校の卒業文集にも「女優か歌手になれたらイイ」と書いていた。朝霞市立朝霞第一中学校時代に『スター誕生!』のオーディションを受け、決戦大会にまで進出した。しかしプロダクションからのスカウトはされなかった。
1983年(昭和58年)4月、東京都北区の東京成徳短期大学附属高等学校に入学。同年7月に初めて原宿を訪れた際に、少女隊のメンバーを探していたボンド企画のスタッフにスカウトされ、芸能界に入った。社長の高杉敬二とはこの後ボンド企画倒産後も二人三脚で歩み続けることとなった。
当初の少女隊のメンバーという構想に反し、その歌唱力の高さを見込まれソロ歌手として活動することになった。高校2年生の1984年(昭和59年)9月に第8回長崎歌謡祭に本名で出場し、「夢少女」(作詞:深田尚美、作曲:安格斯)という楽曲を歌ってグランプリを受賞。このことがレコードデビューのきっかけとなった。
1985年(昭和60年)4月20日に東芝EMIから「殺意のバカンス」でデビューした。同期デビューに、斉藤由貴、中山美穂、南野陽子、森口博子、芳本美代子、井森美幸、浅香唯、石野陽子、松本典子、森川美穂、おニャン子クラブなどがいる。 キャッチフレーズは「美奈子、あなたと初めて♥」と「好きといいなさい!」の2パターン。その後、4枚目のシングル「Temptation(誘惑)」をヒットさせたほか、12月7日には新人歌手としては異例の武道館コンサートを成功させた。また、同年の数多くの新人賞を受賞した。
1986年(昭和61年)2月5日に「1986年のマリリン」をリリースし大ヒットとなった。へそを露出させた衣装や激しく腰を振る振り付けなど当時のアイドル歌手としては異例の演出と相俟って本田の名を広く世間に知らしめた。同曲は今もって本田の最も有名な楽曲である。
1988年(昭和63年)に女性だけのメンバーによるロックバンド“MINAKO with WILD CATS”を結成、シングル「あなたと、熱帯」、アルバム『WILD CATS』などを発表した。同年9月11日SHOW-YAが企画した女性ロッカーのみによるジョイントライブ『NAONのYAON』に出演。翌1989年(平成元年)秋に解散した。
・ミュージカルでの活躍
1990年(平成2年)、ミュージカル『ミス・サイゴン』のオーディションを受け、約1万5000人の中からヒロインのキム役に選ばれた。1992年(平成4年)5月5日『ミス・サイゴン』日本初演。以来一年半のロングランをこなし、その歌唱力、演技力を高く評価された。1992年度第30回ゴールデン・アロー賞演劇新人賞を受賞。
1994年(平成6年)、『屋根の上のバイオリン弾き』にホーデル役で出演。9月24日にアルバム『JUNCTION』を、翌1995年(平成7年)6月25日にはアルバム『晴れ ときどき くもり』をリリースし、レコーディング・アーティストとしても復活を果たした。
1996年(平成8年)、『王様と私』にタプチム役で出演。
1997年(平成9年)、『レ・ミゼラブル』にエポニーヌ役で出演。当時すでに日本初演の際にこの役を演じた島田歌穂が“世界一のエポニーヌ”と称されるほどの評判を得ていたが、本田もそれに劣らぬ評価と人気を獲得した。以後も繰り返しこの役で出演し、エポニーヌは本田の当たり役となった。
1998年(平成10年)にはエイズチャリティーコンサートで「ある晴れた日に」(プッチーニのオペラ『蝶々夫人』より)を歌い、2000年(平成12年)3月20日サリン事件チャリティーコンサートではラフマニノフの「ヴォカリーズ」を歌った。同年6月19日シドニーオリンピックを記念して開かれたシドニーのオペラハウスでの日豪親善コンサートに服部克久の推薦により出演した際には「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」や「ある晴れた日に」を歌うなど、この頃から次第にクラシックへの志向を強めていた。
同じく2000年(平成12年)10月13日にはデビュー15周年記念コンサート『歌革命』を開催、自身のシングル・メドレーのほか「天城越え」や「ある晴れた日に」などを歌った。
2002年(平成14年)、『ひめゆり』にキミ役で出演。日本で制作されたミュージカルへの初の出演となった。
・クラシカル・クロスオーバーへの進出
2003年(平成15年)5月21日、初のクラシックアルバム『AVE MARIA』をリリース。ソプラノ的な唱法でクラシックの曲に日本語詞をつけて歌うというユニークなスタイルで新境地を切り開いた。
同年東宝によりシェイクスピアの戯曲にもとづくミュージカル『十二夜』が制作され、本田はネコ役を初演した。原作にないこの役はセリフに苦手意識のある本田のために特に作られたものだった。
2004年(平成16年)、地球ゴージャス制作のミュージカル『クラウディア』でヒロインのクラウディア役を初演。同年8月29日『N響ほっとコンサート』でNHK交響楽団と共演し「新世界」と「シシリエンヌ」を歌った。11月25日アルバム『時』をリリース。12月1日武道館での『Act Against AIDS』に出演、38度を超える発熱をおして「ジュピター」と「1986年のマリリン」を歌った。この頃からすでに病気の兆候が表れていた。
・白血病死
2004年(平成16年)末頃から風邪に似た症状や微熱が続いた。本田は翌2005年(平成17年)1月12日、急性骨髄性白血病と診断を受けて緊急入院、その翌日にはその事実が公表された。 その後、2度に渡る化学療法を受けるも、寛解(癌細胞が十分に減った状態)は得られなかった。急性骨髄性白血病の中でも極めてまれな予後不良の治療抵抗性の白血病であったという。治療として骨髄移植が考慮されたものの、骨髄バンクでドナーが見つかるまでの猶予すらない病状であったことから、同年5月、臍帯血移植を受けた。同7月末には一時退院したが病気の再発が認められ、同年9月初旬に再入院し、輸入新薬による抗癌剤治療を受けた。翌月には再度一時退院、その間には白血病患者支援のためのNPO法人 『Live for Life 』が設立されたが、同月末には再入院となった。その後肺への合併症から容態が急変し、同年11月6日午前4時38分、家族らの見守るなか、逝去した。38歳没。
法名は、長らく『釋 優聲(しゃく ゆうしょう)』であったが、納骨されている寺の住職の厚意によって2011年より位が上がり、現在は『澄光院(ちょうこういん) 釋 優聲』となっている。
- 本名
- 工藤 美奈子(くどう みなこ)
- 性別
- 男性
- 出生地
- 東京都板橋区
- 生年月日
- 1967-07-31
- 血液型
- O型
- 公式サイト
- http://www.minako-channel.com/